20.5話

「この恋が、人生を変えた」
その頃、東京のドブ臭い地下鉄に映画の電子広告がビカビカと光っていた。
一瞬眩しさに視線を止めたけど、文字を確認すると心の中で馬鹿馬鹿しいと吐き捨てて時間通りに来た朝の満員電車に乗り込んだのを覚えている。

ほんの、半年ほど前の話だ。
今、藤田さんとの「デート」を終えて乗り換えのために降りた駅で同じ広告が光っている。
「この恋が、人生を変えた」
Blu-rayが発売されるらしい。

その通りだな、と今は思う。
なんで30年生きてきて変わらなかっとことがたった半年でこうも変わるのだろう。
陳腐な広告に共感しているのだろう。
俺が陳腐になったのだろうか。…嫌だな。

乗り換えまであと2分しかない。
どうせその3分後には次の電車が来るしこの後なにも予定もないのに、足早にそこから逃げる。

「もう着いた?」
「あと10分くらいで最寄駅着くけど」
「ほーい」

社長であり友人の南條からのLINEだ。
なにがほーい、なのかわからない。しかしそれ以上返信はしない。いつもこんな感じだ。

地方から戻ると東京の空気は春でも低くて重く感じる。
いや、単に心情が朝とは違うからそう感じるのか?それとも実際に地方と東京とでは違うのか。
「その恋は、人生を変えた」
あのフレーズが思い出されたが、大きく息を吐き出してメガネを持ち上げてまた逃げる。
最寄駅の改札を出て、地下から地上への階段を登った所で間伸びした軽薄な声が聞こえる。

「おかえり〜泣いてない?」
「…何してるんだよ」
「仁君のお迎え。ちゃんと気持ちの整理ついた?」

先ほどのLINEの相手である南條が、淀みなく聞いてくる。
隣を歩く僕から見てもいい男は、まだ肌寒いのに半袖のTシャツにターコイズブルーのゆるいジーンズ姿。
しかもシャワーを浴びた後の匂いがする。いつもと違う甘い匂いのシャンプーかボディーソープの匂いだ。

「………」

問いには答えない。
自分と南條のあまりの差、違いにうんざりする。
高校の時からそうだ。
こいつは俺の正反対だ。
それを目の当たりにするたびに負い目を感じてきた。
女性に対して不誠実で、いつも彼女たちを泣かせたり問題を起こしていても、なぜか俺は自分が「下」だと思ってきた。
実際、今はそいつの「下」で働いているのだから、本当に「下」なのだろう。


……いや、「下」じゃない。さっき藤田さんにそう言ったばかりだ。
だけど、ふとした時にそういう考えに囚われる。
強い方の人間だと思っていたけど、最近は弱い人間だと思うようになった。
恋の副作用か?
……いや、恋って。恋の副作用って。なんだよ。

そんな気持ちも知らず、春の冷たい夜風に長い髪の毛をふわふわと揺らしながら軽やかな足取りで南條は俺の隣を歩く。イライラする。
早く1人になりたいが、ショックを受けていることは悟られたくない。

「飯食う?」
「食わない」
「じゃあ飲みに」
「行かない」
「じゃあ何する?」
「家帰る」
「俺も行く」
「お前にはわからないだろうな。真剣に恋をしたこともないんだろ?セフレばっかりだもんな」


いや、違う。言い過ぎた。
いつもの軽口が返ってこない。
というか恋って。…本当におかしくなってしまったみたいだ。こんなの自分じゃない。
顔を見たいけど、見れず真っ直ぐを見て歩くけどちょうど信号に足止めを喰らう。
早く青になってくれ。

「そーだよ。だから、慰め方わからん」

はは、と自嘲気味に笑いながら声がする。
視界の端で表情を盗み見る。
いつもの顔だけど、瞳の奥が、…

「俺は、女の子をデートに誘うのにドキドキしたこともないし、服も相手がどう思うかとか考えたこともない。デートで外に行くよりベットの上の方が圧倒的に多いし。……女の子をちゃんと好きになったこともないし、多分ちゃんと好かれたこともない」

いつもの顔、いつもの声。
なのになんて悲しいことを言うんだろう。
その台詞が悲しいことだって、今ならわかる。

「だから、」

ぐいっと体を寄せられ、がしっと肩を組まれる。
その衝撃で眼鏡がずれる。

「仁は偉いし、羨ましい。…お疲れ様」

ぽんぽん、と肩を叩かれる。
信号が青に変わった。南條はスッと離れて歩き始めるが俺は歩き出せない。

俺が「下」だと思うのは、こうやって素直に感情を自分にも相手にも表現できるから。
「下」でもいいから誘われるまま働いているのはこいつが憎くて少し嫌いで、だけどとても好きだから。

「えー!なに?!仁泣いてるじゃん!」
「うるさい!」
「失恋で泣いたこともないわ〜」

好き。
好きだって、思う。
自分の感情よりも相手が心地よくあってほしいと思う。
だから諦めるし、だから歩み寄るんだ。

「飯食い行くぞ。酒も」
「やったー!いい店行こうぜ!落としたい女の子を連れてくところ連れてってやるよ」

この恋が、人生を変えた。
悲しいという気持ちも、好きだという気持ちも。自分が案外弱いということも。
人との接し方も、向き合ってこなかった自分の気持ちも。全部知った。

これから先、もしまた恋をしたらその度俺の人生はわかるのだろう。
そう思うと、少しそわそわして、わくわくして、やっぱり少し怖い。

おわり。