七瀬結のこと。
私は物心ついた時からずっと自分のことが恥ずかしい。
変な走り方をしてないか?変な食べ方はしてないか?今笑うところ?合ってる?
本当に小学校1年生の頃からそう思って生きてきた。
その理由として思い当たるのは「小学校1年生の2学期に引っ越した」ことがあると思う。
学校指定の鍵盤ハーモニカや絵の具セットなんかのツールが私だけ違った。
親は買い替えてくれなかった。
なので、みんなに注目される。
あの子だけ変(私たちと違う)という視線と言葉。
たった6歳の頃の記憶。
教室の机の木の匂い、窓から差し込む午後の光、全部覚えてる。
そのしみついてどす黒い汚れになった思いは、37歳になった今も私の心臓にある。
恥ずかしさは年齢の変遷とともに変わってきたけれど。
今は、結婚してるのが普通の年なのに結婚していないことが恥ずかしい。
さらに、結婚したいと思えないこと。
子どもも産みたくないし育てたくもないと思っていること。
弟は公務員で結婚して子供が2人もいてマイホームも建てて母親と同居してるのに。
漫画家として生活しているけど、10年やってても全然パッとしないこと。
ぼんやりと社会に対して何も貢献していないと思っていること。
このことをもし、他の人に相談したらそんなことないよ、考えすぎだよと言われると思う。
私も誰かにそんなことを相談されたら同じことを言うと思う。
そして、たぶん本当にそんなことはないんだと思う。
だけど、私のことは私が一番見つめている。
一番私に厳しいのは私だ。
ああ、自分以外の生活をやってみたい。
つくづくそう思う。
みんなも思ったことはあるだろう。
私は実際自分以外の生活をやったことがある。
10年くらい。2010年から2020年くらいの間だったと思う。
その人の名前は、七瀬結。男性。確か28歳で職業は薬剤師。
私と違って恥ずかしいと思って生きていない。
自立してて国家資格があって、何かに属して働いている。
黒髪のサラサラヘア。身長は175cmくらいで可愛げもある。
自己主張はしないけど後輩には慕われてて
面倒なことを上司に頼まれても頑張る。
なりきりチャットという世界で彼は生きていた。
なりきりチャットというのは自分で架空のキャラクターを作って、そのキャラになりきってチャットで誰かとお話しすること。
サイトというのがあって「雑談部屋」とか「カフェ」「ホテル」「水族館」とかいう部屋がある。
雑談部屋ではそのキャラが実際にチャットをしてるように話す。
カフェとかはキャラとキャラがカフェに行ってる設定で話す。
街に出かけるみたいに行きたいチャット部屋に行って会話をする。
そんなところに私は一時期毎晩入り浸ってだれかと話をした。
>七瀬結
こんばんは、お話ししてもいいですか?
>丸山隼人
もちろん。仕事終わりですか?
>七瀬結
はい。俺は37歳なんですけど、丸山さんはおいくつですか?
>丸山隼人
俺も仕事終わり。風呂入って酒飲んでる。俺は32歳。七瀬さんの方がお兄さんですね。
俺はこうやってこの街で色々な人と話した。
2人くらいと付き合った。ワンナイトは数えきれないほど。
俺には結婚はないから悩まない。一人っ子で比べる兄弟もいない。
ちゃんと会社に属している。
彼女ができないことをたくさんした。
恋人とデートをして、誕生日(7月7日)には中華料理をご馳走になってフカヒレを食べた。
彼女はフカヒレを食べたことはない。
夏にはキャンプに行こうと言って連れて行ってもらった。
冬にはウインタースポーツ好きの彼について行ってスノボに行った。
俺はこの街では自由で、全然恥ずかしくなくて、顔色は窺わない。
自信のある大人として振る舞うことができる。28歳だった俺は、37歳になった。
そして、ある時いつものように街に出かけたらその街は「このページは開けません」と表示されて終わっていた。
そうして七瀬結も消えた。というか、終わらせた。
仲良くなるとサイトではなすのではなくてメールに移行にするのでサイトが終わってもメールで特定のキャラと仲良く遊んでいた。
当然その架空のキャラを動かしている生身の人間がキャラの後ろにいる。
1人のお相手キャラと付き合っていると段々と連絡頻度が減ってくる。
メールの返事が来る時間帯が変わる。
そして連絡が途絶える。
忘れていたけど、キャラと一緒に私たちも歳をとるのだ。
生身の人間に、恋人ができ、結婚し、子どもができたのかもしれない。
(ちなみに、なりきりチャット界隈において生身の人間のことに干渉したり探ったりするのは基本的に御法度だ。なので何があったかは正確にはわからない)
キャラ同士は同じ時を生きてるのに、生身の人間同士は同じ時は生きていない。
生活が変わる。変わると終わる。当然だ。
おかしいのは私の方だ。
何も変わらない生活を10年も送ってる私が。
恥ずかしい。
ああ、恥ずかしいなあ本当に。
でも、今私が生きているのは七瀬結のおかげだと言っても過言じゃない。
ハマっていたのがお酒だったら体を壊していたかもしれない。
お金もお酒にはちゃめちゃに使ってただろう。
もし都会に住んでいたら薬物とかに手を出してたはずだ。
怪しい人と仲良くなったり、変な宗教にハマってたとも思う。
七瀬結と一緒に気を紛らわせて本当によかった。
おかげで今も生きてる。
恥ずかしい思いは消えないし、パッとしないし、社会に対してなんの貢献もできてないけど。
気を紛らわせることはできても、私は私をやめられないんだ。
最後に、5年ぶりに七瀬結と話してあげてください。
>七瀬結が入室しました
(175㎝/65kg/38歳
深夜も遅い時間、この時間でもやっているバーへ向かおうと仕事終わりのスーツにダッフルコート、マフラーを巻いて口元を温めながら冬の道を歩く。コツコツと革靴の底をコンクリートに打ち付けながら目的の店へ向かい、橙色の優しい光が灯るその店の重い木製の扉を冷え切った手で押し開けると馴染みの店主が控えめに微笑みながら歓迎の挨拶を向けて席を促し)…ええと、ハイボールを薄めで。銘柄はおすすめのもので(明日も仕事があるので今日は薄めにしてもらい、かしこまりました、との声を聞きながらカウンター席の椅子を引いて着席。ふう、とゆっくり息を吐いてからマフラーをコートを背もたれにかけてスムーズに出されたハイボールを飲みながら誰か話し相手が来るのを待ち)>入室
おわり。